Saturday, December 17, 2016

塩田光喜さんを偲ぶ

 パプアニューギニアを対象とする人類学的研究をしていた塩田光喜さんが亡くなっていたことを今日小耳に挟んだ。
 調べたら2014年2月に病死されたとのこと。知らなかった。あるいは誰かから聞いたけれどそのまま意識下に沈んでいたのか。
 本当に亡くなったのかとかネットで調べていたら、馬場淳さんという方が塩田さんのことを書いた文章を見つけた。
http://www.jsos.net/nl-j-archives.html
 「私が塩田光喜先生とはじめてお会いしたのは、大学院の先輩の誘いで、アジア経済研究所(以下、アジ研)が市ヶ谷から海浜幕張に移転する際の研究室整理に伺ったときだった。二人一組で使う研究室は、薄い仕切り板を挟んで対照的だった。塩田先生の領域は、書籍やコピー類で埋め尽くされ、これまで見たことのない光景が広がっていた。」
 この二人一組の相方だったのが私である。
 1998年4月に私がアジ研の地域研究部に異動し、その時に塩田さんと同室になった。地域研究部は、それまで私がいた大部屋の部と違って2人1部屋で、自分の研究に集中できる環境だった。2人での部屋の分け方は部屋によって違ったが、塩田部屋は縦長の長方形(6畳ぐらいの面積?)をさらに縦に半分にして二人で分けていた。壁際は書棚なので、人ひとり通れるぐらいの隙間しかないウナギの寝床のようなスペースだった。
 塩田さんのスペースは馬場さんが書いているように書籍やコピーで埋め尽くされており、床には10センチ程度のコピーや本の「地層」があり、それらを踏みつけて歩かないとウナギの寝床の先端にある机にたどり着けない。
 幕張に移転した1999年11月まで1年半ほどご一緒したが、しじゅう友好的に過ごした。私のスペースも塩田さんのところと同じく先端に机があり、間に間仕切りがあるので相手の姿は見えないが、いればもちろんわかる。間仕切りごしにあれこれ話したが、何を話したのか余り思い出せない。研究室に来られなかったことも多かったし、来ても同時にいる時間は一日2-3時間程度ではなかったか。当時、塩田さんはニューギニアで採録した録音を再生してそれを書き起こしていた。
時折、間仕切りの下から、塩田さんの床の「地層」のものがはみ出てきた。それが食べかけのお菓子の袋だったこともあった。
 塩田さんのスペースの入口にスチールケースがあり、その上に伊藤園の緑茶の缶が何本も並んでいた。ある時、塩田さんに「飲み終わったお茶の缶捨てないんですか」と聞いたら、お茶の缶に印刷されている短歌を鑑賞しているのだという。たしかに短歌の面がスペースに入る時に正面から見えるような方向に缶が置かれていた。
 時折、間仕切りの向こうから「丸川、ヘルプ」と声がかかった。それはだいたいパソコンの扱いを教えてほしいということだったと思う。その時は「地層」を恐る恐る踏みしめながら塩田さんの机に行った。
 移転が近づき、幕張に持って行けるのは1人何箱と制限されたので、私は書類や本などをかなり処分したが、塩田さんのスペースはいっこうに変化がない。自分の片づけや仕事で手一杯で塩田さんに構ってられなかったが、いったいどうなるのか気がかりではあった。引っ越し前後の数日、私は出張か何かでしばらく留守にしていたが、戻ってみたら、驚いたことに塩田さんのスペースも見事に空になっていて、無事引っ越していたのだった。
 私が人から聞いたのは、引っ越しの直前になってアジ研の女性陣数名が突如現れ、魔法のようにきれいにしていったとのことだった。だが、馬場さんの文によれば馬場さんら大学院生もいらしたらしい。私の引っ越しは孤独な作業だったので、いざとなったらみんなに助けてもらえる塩田さんの不思議な魅力に嫉妬した。
 塩田さんは何人かの編集者にもモテていた。当時はまだアジ研内の雑誌や出版物に研究成果を発表するばかりだったが、熱心な編集者の誘いでその後外部の出版社から何冊か本を出した。
 市ヶ谷でウナギの寝床のようなスペースに限定されていたことは、塩田さんのように身辺整理ができない人にはかえって良かったのかもしれない。幕張に移転して個室を与えられるようになってからますます部屋が乱雑になり、健康状態もすぐれなくなったと聞いている。

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