書評・明木茂夫『中国地名カタカナ表記の研究――教科書・地図帳・そして国語審議会』東方書店、2014年
丸川知雄
大学生の頃、1か月かけて中国各地を貧乏旅行した。中国語は大学の第4外国語として1年間勉強しただけだったが、度胸と気合で硬座を乗り継ぎ、安宿を泊まり歩いた。旅の後半、瀋陽に泊まった時、本多勝一の『中国の旅』で読んだ「万人坑」が撫順にあるはずだと思い立って、フロントで撫順への行き方を尋ねた。中学と高校の地理で撫順は「石炭の露天掘りで有名なフーシュン」と習っていたので、「我要去フーシュン(フーシュンに行きたいのですが)」と聞くと、「哪里?(どこ?)」「フーシュン」「ン?」といった感じで全然通じない。不本意ながら紙に「撫順」と書いたら、「哦,fǔshùn!」とわかってくれた。撫順の駅に着いてからもメモ帳に「万人坑」と書いて道を尋ね、なんとか平頂山の同胞殉難記念館[1]にたどり着いた。
中国語では声調が大事だということは知っていたが、「フーシュン」ぐらいの簡単な発音ならたとえ間違っていても何とか通じるのではないかと甘く見ていたのである。この経験から中学・高校の地理で学んだカタカナ表記による中国地名は役に立たず、むしろ漢字の知識が有用であることを思い知った。
大学卒業後、私は中国経済研究の道に入り、新聞記者、中国でビジネスをする日本人ビジネスマン、中国研究者と無数の会話を交わしてきたが、天津を「テンチン」、広州を「コワンチョウ」、万里の長城を「ワンリー長城」、珠江を「チュー川」というような珍妙な表現をする日本人にはついぞ出会ったことがない。ところが、中学・高校の地理教科書や地図帳では私が学生だった30年以上前から今日に至るまでずっとこのような地名表記が行われてきたのだ。
しかも、学校によっては微妙なカタカナの使い分けまで要求するところもあるようで、本書に紹介されている学生の証言によれば、「テストで遼東半島のことをリャオトン半島と書いたら×をもらいました。先生は、『リヤオトン半島』が正解だというのです」といった悲劇まで起こっている。
日本じゅうの中高生たちがこのような無意味な暗記を強いられていることに私は強い憤りを感じるとともに、申し訳ない気持ちも抱いている。というのは、私はいまや高校地理の教科書2冊[2]の執筆陣に加わり、中国に関する部分を書いているからだ。言い訳めいて恐縮だが、いずれの教科書を書く際にも、私は編集者に対して中国の地名は漢字表記にすべきであり、珍妙なカタカナ表記は日本の実社会では全く役に立たないし、中国で通じるわけでもないのでやめるべきだとかなり強く主張した。しかし、編集者には受け入れてもらえず、漢字も併記するからとなだめられて矛を納めた。本書によれば小学校から高校までの教科書と地図帳がすべてカタカナ表記で統一されているため、編集者としても一執筆者の意見によって表記を変えるわけにはいかないのだろう。
それにしてもいったいなぜ日本の地理教育界はこの珍妙なカタカナ表記にこだわり続けているのだろうか。帝国書院の若い編集者に聞いてみたところ、余り自信なさげに「友好教育の影響が強くて…」とおっしゃった。その意味は十分に理解できなかったが、おそらく中国との友好関係に配慮して現地の音に近い読み方を採用することになった、ということなのだろうと解釈した。だが、本書によれば真の理由はまったく別のところにあった。
中国の地名をカタカナで表記するという方針は昭和20年代に政府の国語審議会で定められた。国語審議会がなぜそのような方針を決めたかというと、漢字を廃止して日本語をカナ文字だけで、もしくはローマ字で表記することを主張する運動を戦前から展開していた人々が委員に加わっていたからだ。日本語のなかの漢字使用を制限し、いずれは廃止しようとする動きの一環として中国の地名もカタカナ表記にされたのである。使う漢字の数を極力減らすのが目的なので、当初は黄河、長江さえも「ホワン川」「ヤンツー川」と表記すべきだと定められた。
そうした国語審議会での議論を受けて昭和33年に文部省が『地名の呼び方と書き方』という社会科教育の手引書を刊行し、そのなかで中国の地名をカタカナ表記する方法について指導している。この手引書では「ホワン川」「ヤンツー川」はさすがに行きすぎだと考えたのか「黄河」「揚子江」という表記でいいことにしているが、淮河を「ホワイ川」、珠江を「チュー川」、天津を「テンチン」といった今日まで続く珍妙な表記はこの手引書が源となっている。その後、昭和53年と平成6年に財団法人教科書研究センターから『地名表記の手引』が刊行され、これらが現行の地理教科書と地図帳の表記の基準になっているようである。
以上のように、中国地名のカタカナ表記は「日中友好」どころか、むしろ日本語からの漢字追放という「反中的」ともいうべき動機に由来することだったのである。瀋陽よりも「シェンヤン」のほうが現地音に近くて国際的なコミュニケーションに役立つといった理由づけが後でなされたが、本稿の冒頭で述べたように、カタカナでは中国語の声調を正しく発音できないため、中国ではたいがい通じない。だが、より大きな問題は、日本の実社会では、ペキン、シャンハイなど少数の例外を除いては中国の地名を漢字の音読みで呼ぶことが一般的なので、学校で学んだカタカナ表記が日本人同士のコミュニケーションにも役立たないことである。
もっとも、意外なことに、本書によれば、中国の地名のカタカナ表記は国語審議会の独断ではなく、昭和20年代前半には日本の主要な新聞や放送もカタカナ表記をしていたのだという。しかし、新聞や放送ではそうした表記は定着しなかったし、長年の地理教育も空しく中国地名のカタカナ表記は日本の実社会ではほとんど使われていない。時々新聞のコラムなどで「日本では江沢民、胡錦濤と呼んでいるが、アメリカ人と話していてJiang Zemin, Hu Jintaoと言われて誰のことかわからなかった。国際化の時代だからマスコミでも中国語の現地音で表記すべきだ」という意見も見かける。本書によればそういう意見は戦前からあったという。だが、それでも日本社会では中国の人名や地名は漢字の音読みが基本であり続けるだろう。なぜなら、中国の人名や地名をカタカナ表記しようとすると、「チャン」や「チー」だらけになってきわめて覚えにくいからだ。
本書を読んで、改めて地理教科書と地図帳における中国地名のカタカナ表記は廃止し、漢字表記を主として、慣用的な読みをルビでふるように改めるべきだと強く思った。しかし、1人の教科書執筆者がいくら声を張り上げても事態は変わりそうにない。どうすれば無意味な教育をやめさせることができるのだろうか。カタカナ表記は元はと言えば文部省の指導から始まっているのだから、文部科学省にやめるよう指導してもらうのが筋かもしれない。だが、文部科学省はそのような指導はもうしていないと責任回避するに違いない。であるならば、地理教科書の執筆者たちが出版社の別を超えて手を携え、中国地名の表記法を実社会での慣行に合わせて変えていくことが考えられる。
ただ、そのためには実際に日本社会で中国各地の地名をどのように呼んでいるのか綿密に調査する必要があるし、また、どのような呼び方が望ましいかを考える必要もあるだろう。例えば、広州と杭州は漢字を音読みするといずれも「こうしゅう」になって紛らわしいため、中国に駐在する日本企業関係者の間では杭州を「くいしゅう」と呼ぶことが多いが、果たしてこの呼び方を採用するべきなのだろうか、それとも原則に従って両方とも「こうしゅう」とすべきなのだろうか。広州も杭州も成田から直行便が飛んでいるぐらい日本にとっては重要な都市だから、両方とも同じ音というのは具合が悪い。早い話、広州行の飛行機に乗るつもりで杭州行に乗ってしまったという事故が起きかねない。私は杭州に限っては漢字音読みの原則を曲げて「杭州(ハンジョウ)」と呼ぶことにしてもよいように思う。
北京、上海、南京、青島については実社会においてもペキン、シャンハイ、ナンキン、チンタオという読み方が定着しているから地理教科書の表記を変える必要はない。だが、ペキンとナンキンについては、この際、日本全体で呼び方を「ベイジン」と「ナンジン」に改めてもよいのではないかと思う。本書で学んだのだが、Peking, Nankingというのは清朝末期に定められた「郵政式拼音」に基づく北京、南京の表記法で、それを英語式に読んだのが「ペキン」「ナンキン」である。だが、英語圏ではいつの頃からかBeijing, Nanjingと表記するのが一般的になった。中国語と英語の両方でベイジン、ナンジンが一般化している以上、日本もそれに合わせたほうがいいのではないだろうか。2001年にインドのボンベイ、マドラス、カルカッタがムンバイ、チェンナイ、コルカタに変わり、2005年に中国における韓国の首都名の呼び方が漢城から首爾に変わったように、主要な数都市の呼び方を変えることは意外に簡単である。いずれにせよ、本書という強力な武器を得て、戦後60年続いてきた教育現場での中国地名の珍妙なカタカナ表記を改めるべき時が来た。
[1] 1932年9月に日本の憲兵隊などが抗日ゲリラを掃討するとして平頂山村の住民3000人(一説には400-800人)を虐殺した。記念館は焼かれて白骨化した遺体の山を覆うように建てられている。
[2] 平成19年発行の『高等学校新地理A』(帝国書院)と平成25年発行の『新詳地理B』(帝国書院)。